棄てて去らんとすれば、巨人手を振って云う。われ今浄土ワルハラに帰る、幻影の盾を要せず。百年の後南方に赤衣《せきい》の美人あるべし。その歌のこの盾の面《おもて》に触るるとき、汝の児孫盾を抱《いだ》いて抃舞《べんぶ》するものあらんと。……」汝の児孫[#「汝の児孫」に傍点]とはわが事ではないかとウィリアムは疑う。表に足音がして室《へや》の戸の前に留った様である。「巨人は薊の中に斃《たお》れて、薊の中に残れるはこの盾なり」と読み終ってウィリアムが又壁の上の盾を見ると蛇の毛は又|揺《うご》き始める。隙間《すきま》なく縺《もつ》れた中を下へ下へと潜《もぐ》りて盾の裏側まで抜けはせぬかと疑わるる事もあり、又上へ上へともがき出て五寸の円の輪廓《りんかく》だけが盾を離れて浮き出はせぬかと思わるる事もある。下に動くときも上に揺り出す時も同じ様に清水《しみず》が滑《なめら》かな石の間を※[#「榮」の「木」に代えて「糸」、第3水準1−90−16]《めぐ》る時の様な音が出る。只その音が一本々々の毛が鳴って一束の音にかたまって耳朶《じだ》に達するのは以前と異なる事はない。動くものは必ず鳴ると見えるに、蛇の毛は悉く
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