7−64]が見える。「火事だ!」とウィリアムは思わず叫ぶ。火事は構わぬが今心の眼に思い浮べた※[#「(諂−言)+炎」、第3水準1−87−64]の中にはクララの髪の毛が漾《ただよ》っている。何故あの火の中へ飛び込んで同じ所で死ななかったのかとウィリアムは舌打ちをする。「盾の仕業《しわざ》だ」と口の内でつぶやく。見ると盾は馬の頭を三尺ばかり右へ隔てて表を空にむけて横わっている。
「これが恋の果か、呪《のろ》いが醒めても恋は醒めぬ」とウィリアムは又額を抑えて、己れを煩悶《はんもん》の海に沈める。海の底に足がついて、世に疎《うと》きまで思い入るとき、何処《いずく》よりか、微《かす》かなる糸を馬の尾で摩《こす》る様な響が聞える。睡るウィリアムは眼を開いてあたりを見廻す。ここは何処とも分らぬが、目の届く限りは一面の林である。林とは云え、枝を交えて高き日を遮ぎる一|抱《かか》え二抱えの大木はない。木は一坪に一本位の割でその大《おおき》さも径六七寸位のもののみであろう。不思議にもそれが皆同じ樹である。枝が幹の根を去る六尺位の所から上を向いて、しなやかな線を描いて生えている。その枝が聚《あつ》まって、中が膨《ふく》れ、上が尖《と》がって欄干の擬宝珠《ぎぼうしゅ》か、筆の穂の水を含んだ形状をする。枝の悉くは丸い黄な葉を以《もっ》て隙間なきまでに綴られているから、枝の重なる筆の穂[#「筆の穂」に傍点]は色の変る、面長な葡萄の珠で、穂の重なる林の態《さま》は葡萄の房の累々と連なる趣きがある。下より仰げば少しずつは空も青く見らるる。只眼を放つ遙《はる》か向《むこう》の果に、樹の幹が互《たがい》に近づきつ、遠《とおざ》かりつ黒くならぶ間に、澄み渡る秋の空が鏡の如く光るは心行く眺めである。時々鏡の面を羅《うすもの》が過ぎ行|様《さま》まで横から見える。地面は一面の苔《こけ》で秋に入《い》って稍《やや》黄食《きば》んだと思われる所もあり、又は薄茶に枯れかかった辺もあるが、人の踏んだ痕《あと》がないから、黄は黄なり、薄茶は薄茶のまま、苔と云う昔しの姿を存している。ここかしこに歯朶《しだ》の茂りが平かな面を破って幽情を添えるばかりだ。鳥も鳴かぬ風も渡らぬ。寂然《せきぜん》として太古の昔を至る所に描き出しているが、樹の高からぬのと秋の日の射透すので、さほど静かな割合に怖しい感じが少ない。その秋の日は極《きわ》めて明《あきら》かな日である。真上から林を照らす光線が、かの丸い黄な無数の葉を一度に洗って、林の中は存外明るい。葉の向きは固《もと》より一様でないから、日を射返す具合も悉く違う。同じ黄ではあるが透明、半透明、濃き、薄き、様々の趣向をそれぞれに凝《こら》している。それが乱れ、雑《まじ》り、重なって苔の上を照らすから、林の中に居るものは琥珀《こはく》の屏《びょう》を繞《めぐ》らして間接に太陽の光りを浴びる心地である。ウィリアムは醒めて苦しく、夢に落付くという容子《ようす》に見える。糸の音《ね》が再び落ちつきかけた耳朶《じだ》に響く。今度は怪しき音の方へ眼をむける。幹をすかして空の見える反対の方角を見ると――西か東か無論わからぬ――爰《ここ》ばかりは木が重なり合《おう》て一畝《ひとせ》程は際立《きわだ》つ薄暗さを地に印する中に池がある。池は大きくはない、出来|損《そこな》いの瓜《うり》の様に狭き幅を木陰に横たえている。これも太古の池で中に湛《たた》えるのは同じく太古の水であろう、寒気がする程青い。いつ散ったものか黄な小さき葉が水の上に浮いている。ここにも天《あめ》が下の風は吹く事があると見えて、浮ぶ葉は吹き寄せられて、所々にかたまっている。群を離れて散っているのはもとより数え切れぬ。糸の音は三たび響く。滑《なめら》かなる坂を、護謨《ゴム》の輪が緩々《ゆるゆる》練り上る如く、低くきより自然に高き調子に移りてはたとやむ。
ウィリアムの腰は鞍《くら》を離れた。池の方に眼を向けたまま音ある方《かた》へ徐《おもむ》ろに歩を移す。ぼろぼろと崩るる苔の皮の、厚く柔らかなれば、あるく時も、坐れる時の如く林の中は森《しん》として静かである。足音に我が動くを知るものの、音なければ動く事を忘るるか、ウィリアムは歩むとは思わず只ふらふらと池の汀《みぎわ》まで進み寄る。池幅の少しく逼《せま》りたるに、臥《ふ》す牛を欺く程の岩が向側から半ば岸に沿うて蹲踞《うずくま》れば、ウィリアムと岩との間は僅《わず》か一丈余ならんと思われる。その岩の上に一人の女が、眩《まば》ゆしと見ゆるまでに紅なる衣を着て、知らぬ世の楽器を弾《ひ》くともなしに弾いている。碧《みど》り積む水が肌に沁《し》む寒き色の中に、この女の影を倒《さか》しまに※[#「くさかんむり/(酉+隹)/れんが」、第3水準1−91−44]《ひた》
前へ
次へ
全14ページ中12ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング