幻影の盾
夏目漱石
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)縹緲《ひょうびょう》たる
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)吾|頚《くび》をも
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)円卓の勇士[#「円卓の勇士」に白丸傍点]を
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一心不乱と云う事を、目に見えぬ怪力をかり、縹緲《ひょうびょう》たる背景の前に写し出そうと考えて、この趣向を得た。これを日本の物語に書き下《おろ》さなかったのはこの趣向とわが国の風俗が調和すまいと思うたからである。浅学にて古代騎士の状況に通ぜず、従って叙事妥当を欠き、描景真相を失する所が多かろう、読者の誨《おしえ》を待つ。
遠き世の物語である。バロンと名乗るものの城を構え濠《ほり》を環《めぐ》らして、人を屠《ほふ》り天に驕《おご》れる昔に帰れ。今代《きんだい》の話しではない。
何時《いつ》の頃とも知らぬ。只アーサー大王《たいおう》の御代とのみ言い伝えたる世に、ブレトンの一士人がブレトンの一女子に懸想《けそう》した事がある。その頃の恋はあだには出来ぬ。思う人の唇《くちびる》に燃ゆる情けの息を吹く為には、吾《わが》肱《ひじ》をも折らねばならぬ、吾|頚《くび》をも挫《くじ》かねばならぬ、時としては吾血潮さえ容赦もなく流さねばならなかった。懸想されたるブレトンの女は懸想せるブレトンの男に向って云う、君が恋、叶《かな》えんとならば、残りなく円卓の勇士[#「円卓の勇士」に白丸傍点]を倒して、われを世に類《たぐ》いなき美しき女と名乗り給え、アーサーの養える名高き鷹《たか》を獲て吾|許《もと》に送り届け給えと、男心得たりと腰に帯びたる長き剣《つるぎ》に盟《ちか》えば、天上天下に吾志を妨ぐるものなく、遂《つい》に仙姫《せんき》の援《たすけ》を得て悉《ことごと》く女の言うところを果す。鷹の足を纏《まと》える細き金の鎖の端《はし》に結びつけたる羊皮紙を読めば、三十一カ条の愛に関する法章であった。所謂《いわゆる》「愛の庁」の憲法とはこれである。……盾《たて》の話しはこの憲法の盛に行われた時代に起った事と思え。
行く路《みち》を扼《やく》すとは、その上《かみ》騎士の間に行われた習慣である。幅広からぬ往還に立ちて、通り掛りの武士に戦《たたかい》を挑《いど》む。二人の槍《やり》の穂先が撓《しわ》って馬と馬の鼻頭《はなづら》が合うとき、鞍壺《くらつぼ》にたまらず落ちたが最後無難にこの関を踰《こ》ゆる事は出来ぬ。鎧《よろい》、甲《かぶと》、馬|諸共《もろとも》に召し上げらるる。路を扼する侍は武士の名を藉《か》る山賊の様なものである。期限は三十日、傍《かたえ》の木立に吾旗を翻えし、喇叭《らっぱ》を吹いて人や来ると待つ。今日も待ち明日《あす》も待ち明後日《あさって》も待つ。五六三十日の期が満つるまでは必ず待つ。時には我意中の美人と共に待つ事もある。通り掛りの上臈《じょうろう》は吾を護《まも》る侍の鎧の袖《そで》に隠れて関を抜ける。守護の侍は必ず路を扼する武士と槍を交える。交えねば自身は無論の事、二世《にせ》かけて誓える女性《にょしょう》をすら通す事は出来ぬ。千四百四十九年にバーガンデの私生子[#「私生子」に傍点]と称する豪のものがラ・ベル・ジャルダンと云える路を首尾よく三十日間守り終《おお》せたるは今に人の口碑に存する逸話である。三十日の間私生子[#「私生子」に傍点]と起居を共にせる美人は只「清き巡礼の子」という名にその本名を知る事が出来ぬのは遺憾《いかん》である。……盾の話しはこの時代の事と思え。
この盾は何時の世のものとも知れぬ。パヴィースと云うて三角を倒《さかし》まにして全身を蔽《おお》う位な大きさに作られたものとも違う。ギージという革紐《かわひも》にて肩から釣るす種類でもない。上部に鉄の格子《こうし》を穿《あ》けて中央の孔から鉄砲を打つと云う仕懸《しかけ》の後世のものでは無論ない。いずれの時、何者が錬《きた》えた盾かは盾の主人なるウィリアムさえ知らぬ。ウィリアムはこの盾を自己の室《へや》の壁に懸けて朝夕《ちょうせき》眺めている。人が聞くと不可思議な盾だと云う。霊の盾だと云う。この盾を持って戦に臨むとき、過去、現在、未来に渉《わた》って吾願を叶える事のある盾だと云う。名あるかと聞けば只|幻影《まぼろし》の盾と答える。ウィリアムはその他を言わぬ。
盾の形は望《もち》の夜の月の如く丸い。鋼《はがね》で饅頭《まんじゅう》形の表を一面に張りつめてあるから、輝やける色さえも月に似ている。縁《ふち》を繞《めぐ》りて小指の先程の鋲《びょう》が奇麗に五分程の間を置いて植えられてある。鋲の色もまた銀色である。鋲の輪の内側は四寸ばかりの円を画《かく》して匠人の巧を尽
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