したる唐草《からくさ》が彫り付けてある。模様があまり細か過ぎるので一寸《ちょっと》見ると只不規則の漣※[#「さんずい+猗」、第3水準1−87−6]《れんい》が、肌《はだ》に答えぬ程の微風に、数え難き皺《しわ》を寄する如くである。花か蔦《つた》か或《ある》は葉か、所々が劇《はげ》しく光線を反射して余所《よそ》よりも際立《きわだ》ちて視線を襲うのは昔し象嵌《ぞうがん》のあった名残でもあろう。猶内側へ這入《はい》ると延板《のべいた》の平らな地になる。そこは今も猶鏡の如く輝やいて面にあたるものは必ず写す。ウィリアムの顔も写る。ウィリアムの甲の挿毛《さしげ》のふわふわと風に靡《なび》く様も写る。日に向けたら日に燃えて日の影をも写そう。鳥を追えば、こだま[#「こだま」に傍点]さえ交えずに十里を飛ぶ俊鶻《しゅんこつ》の影も写そう。時には壁から卸して磨《みが》くかとウィリアムに問えば否と云う。霊の盾は磨かねども光るとウィリアムは独《ひと》り語《ごと》の様に云う。
 盾の真中《まんなか》が五寸ばかりの円を描いて浮き上る。これには怖ろしき夜叉《やしゃ》の顔が隙間《すきま》もなく鋳《い》出《いだ》されている。その顔は長《とこ》しえに天と地と中間にある人とを呪《のろ》う。右から盾を見るときは右に向って呪い、左から盾を覗《のぞ》くときは左に向って呪い、正面から盾に対《むか》う敵には固《もと》より正面を見て呪う。ある時は盾の裏にかくるる持主をさえ呪いはせぬかと思わるる程怖しい。頭《かしら》の毛は春夏秋冬の風に一度に吹かれた様に残りなく逆立っている。しかもその一本一本の末は丸く平たい蛇《へび》の頭となってその裂け目から消えんとしては燃ゆる如き舌を出している。毛と云う毛は悉く蛇で、その蛇は悉く首を擡《もた》げて舌を吐いて縺《もつ》るるのも、捻《ね》じ合うのも、攀《よ》じあがるのも、にじり出るのも見らるる。五寸の円の内部に獰悪《どうあく》なる夜叉の顔を辛うじて残して、額際から顔の左右を残なく填《うず》めて自然《じねん》に円の輪廓《りんかく》を形ちづくっているのはこの毛髪の蛇、蛇の毛髪である。遠き昔しのゴーゴンとはこれであろうかと思わるる位だ。ゴーゴンを見る者は石に化すとは当時の諺《ことわざ》であるが、この盾を熟視する者は何人《なんびと》もその諺のあながちならぬを覚《さと》るであろう。
 盾には創《きず》がある。右の肩から左へ斜《はす》に切りつけた刀の痕《あと》が見える。玉を並べた様な鋲《びょう》の一つを半ば潰《つぶ》して、ゴーゴン・メジューサに似た夜叉の耳のあたりを纏《まと》う蛇の頭を叩いて、横に延板の平な地へ微《かす》かな細長い凹《くぼ》みが出来ている。ウィリアムにこの創《きず》の因縁を聞くと何《なん》にも云わぬ。知らぬかと云えば知ると云う。知るかと云えば言い難しと答える。
 人に云えぬ盾の由来の裏には、人に云えぬ恋の恨みが潜んでいる。人に云わぬ盾の歴史の中《うち》には世もいらぬ神もいらぬとまで思いつめたる望の綱が繋《つな》がれている。ウィリアムが日毎夜毎に繰り返す心の物語りはこの盾と浅からぬ因果の覊絆《きずな》で結び付けられている。いざという時この盾を執って……望はこれである。心の奥に何者かほのめいて消え難き前世の名残の如きを、白日の下に引き出《いだ》して明ら様に見極むるはこの盾の力である。いずくより吹くとも知らぬ業障《ごうしょう》の風の、隙《すき》多き胸に洩《も》れて目に見えぬ波の、立ちては崩《くず》れ、崩れては立つを浪なき昔、風吹かぬ昔に返すはこの盾の力である。この盾だにあらばとウィリアムは盾の懸かれる壁を仰ぐ。天地人を呪うべき夜叉の姿も、彼が眼には画ける天女《てんにょ》の微かに笑《えみ》を帯べるが如く思わるる。時にはわが思う人の肖像ではなきかと疑う折さえある。只抜け出して語らぬが残念である。
 思う人! ウィリアムが思う人はここには居らぬ。小山を三つ越えて大河を一つ渉《わた》りて二十|哩《マイル》先の夜鴉《よがらす》の城に居る。夜鴉の城とは名からして不吉であると、ウィリアムは時々考える事がある。然しその夜鴉の城へ、彼は小児の時|度々《たびたび》遊びに行った事がある。小児の時のみではない成人してからも始終|訪問《おとず》れた。クララの居る所なら海の底でも行かずにはいられぬ。彼はつい近頃まで夜鴉の城へ行っては終日クララと語り暮したのである。恋と名がつけば千里も行く。二十哩は云うに足らぬ。夜を守る星の影が自《おの》ずと消えて、東の空に紅殻《べにがら》を揉《も》み込んだ様な時刻に、白城の刎橋《はねばし》の上に騎馬の侍が一人あらわれる。……宵の明星が本丸の櫓《やぐら》の北角にピカと見え初《そ》むる時、遠き方より又|蹄《ひづめ》の音が昼と夜の境を破って白城の方へ
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