近づいて来る。馬は総身に汗をかいて、白い泡を吹いているに、乗手は鞭《むち》を鳴らして口笛をふく。戦国のならい、ウィリアムは馬の背で人と成ったのである。
 去年の春の頃から白城の刎橋の上に、暁方《あけがた》の武者の影が見えなくなった。夕暮の蹄の音も野に逼《せま》る黒きものの裏《うち》に吸い取られてか、聞えなくなった。その頃からウィリアムは、己《おの》れを己れの中《うち》へ引き入るる様に、内へ内へと深く食い入る気色であった。花も春も余所《よそ》に見て、只心の中に貯えたる何者かを使い尽すまではどうあっても外界に気を転ぜぬ様に見受けられた。武士の命は女と酒と軍《いく》さである。吾思う人の為めにと箸《はし》の上げ下しに云う誰彼《たれかれ》に傚《なら》って、わがクララの為めにと云わぬ事はないが、その声の咽喉《のど》を出る時は、塞《ふさ》がる声帯を無理に押し分ける様であった。血の如き葡萄の酒を髑髏《どくろ》形の盃《さかずき》にうけて、縁越すことをゆるさじと、髭《ひげ》の尾まで濡《ぬ》らして呑み干す人の中に、彼は只額を抑えて、斜めに泡を吹くことが多かった。山と盛る鹿の肉に好味の刀《とう》を揮《ふる》う左も顧みず右も眺めず、只わが前に置かれたる皿のみを見詰めて済す折もあった。皿の上に堆《うずた》かき肉塊の残らぬ事は少ない。武士の命を三|分《ぶん》して女と酒と軍《いく》さがその三カ一を占むるならば、ウィリアムの命の三|分《ぶ》二は既に死んだ様なものである。残る三分一は? 軍《いくさ》はまだない。
 ウィリアムは身の丈《たけ》六尺一寸、痩《や》せてはいるが満身の筋肉を骨格の上へたたき付けて出来上った様な男である。四年前の戦《たたかい》に甲も棄て、鎧も脱いで丸裸になって城壁の裏《うち》に仕掛けたる、カタパルトを彎《ひ》いた事がある。戦が済んでからその有様を見ていた者がウィリアムの腕には鉄の瘤《こぶ》が出るといった。彼の眼と髪は石炭の様に黒い。その髪は渦を巻いて、彼が頭《かしら》を掉《ふ》る度にきらきらする。彼の眼《まなこ》の奥には又一双の眼《まなこ》があって重なり合っている様な光りと深さとが見える。酒の味に命を失い、未了の恋に命を失いつつある彼は来《きた》るべき戦場にもまた命を失うだろうか。彼は馬に乗って終日終夜野を行くに疲れた事のない男である。彼は一片の麺麭《パン》も食わず一滴の水さえ飲まず、未明より薄暮まで働き得る男である。年は二十六歳。それで戦《いくさ》が出来ぬであろうか。それで戦が出来ぬ位なら武士の家に生れて来ぬがよい。ウィリアム自身もそう思っている。ウィリアムは幻影《まぼろし》の盾を翳《かざ》して戦う機会があれば……と思っている。
 白城の城主狼のルーファス[#「ルーファス」に傍点]と夜鴉の城主とは二十年来の好《よし》みで家の子|郎党《ろうどう》の末に至るまで互《たがい》に往き来せぬは稀《まれ》な位打ち解けた間柄であった。確執の起ったのは去年《こぞ》の春の初からである。源因は私ならぬ政治上の紛議の果とも云い、あるは鷹狩の帰りに獲物争いの口論からと唱え、又は夜鴉の城主の愛女クララの身の上に係る衝突に本づくとも言触らす。過ぐる日の饗筵《きょうえん》に、卓上の酒尽きて、居並ぶ人の舌の根のしどろに緩《ゆる》む時、首席を占むる隣り合せの二人が、何事か声高《こわだか》に罵《ののし》る声を聞かぬ者はなかった。「月に吠ゆる狼《おおかみ》の……ほざくは」と手にしたる盃を地に抛《なげう》って、夜鴉の城主は立ち上る。盃の底に残れる赤き酒の、斑《まだ》らに床を染めて飽きたらず、摧《くだ》けたる※[#「角+光」、第3水準1−91−91]片《こうへん》と共にルーファスの胸のあたりまで跳ね上る。「夜《よ》迷《ま》い烏の黒き翼を、切って落せば、地獄の闇《やみ》ぞ」とルーファスは革に釣る重き剣に手を懸けてするすると四五寸ばかり抜く。一座の視線は悉く二人の上に集まる。高き窓洩る夕日を脊に負う、二人の黒き姿の、この世の様とも思われぬ中に、抜きかけた剣のみが寒き光を放つ。この時ルーファスの次に座を占めたるウィリアムが「渾名《あだな》こそ狼なれ、君が剣に刻《きざ》める文字に耻《は》じずや」と右手《めて》を延ばしてルーファスの腰のあたりを指《ゆびさ》す。幅広き刃《やいば》の鍔《つば》の真下に pro gloria et patria と云う銘が刻んである。水を打った様な静かな中に、只ルーファスが抜きかけた剣を元の鞘《さや》に収むる声のみが高く響いた。これより両家の間は長く中絶えて、ウィリアムの乗り馴《な》れた栗毛《くりげ》の馬は少しく肥えた様に見えた。
 近頃は戦さの噂《うわさ》さえ頻《しき》りである。睚眦《がいさい》の恨《うらみ》は人を欺く笑《えみ》の衣に包めども、解け難き胸の乱れ
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