去に向けた上は、眼に映るは煕々《きき》たる前程のみである。後《うしろ》を向けばひゅうと北風が吹く。この寒い所をやっとの思いで斬り抜けた昨日今日《きのうきょう》、寒い所から、寒いものが追っ懸《か》けて来る。今まではただ忘れればよかった。未来の発展の暖く鮮《あざ》やかなるうちに、己《おの》れを捲《ま》き込んで、一歩でも過去を遠退《とおの》けばそれで済んだ。生きている過去も、死んだ過去のうちに静かに鏤《ちりばめ》られて、動くかとは掛念《けねん》しながらも、まず大丈夫だろうと、その日、その日に立ち退《の》いては、顧みるパノラマの長く連なるだけで、一点も動かぬに胸を撫《な》でていた。ところが、昔しながらとたかを括《くく》って、過去の管《くだ》を今さら覗いて見ると――動くものがある。われは過去を棄てんとしつつあるに、過去はわれに近づいて来る。逼《せま》って来る。静かなる前後と枯れ尽したる左右を乗り超《こ》えて、暗夜《やみよ》を照らす提灯《ちょうちん》の火のごとく揺れて来る、動いてくる。小野さんは部屋の中を廻り始めた。
 自然は自然を用い尽さぬ。極《きわ》まらんとする前に何事か起る。単調は自然の敵で
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