》を転じてロゼッチの詩集を眺《なが》めた。詩集の表紙の上に散った二片《ふたひら》の紅《くれない》も眺めた。紅に誘われて、右の角《かど》に在るべき色硝子の一輪挿も眺めようとした。一輪挿はどこかへ行ってあらぬ。一昨日《おととい》挿した椿《つばき》は影も形もない。うつくしい未来を覗く管《くだ》が無くなった。
小野さんは机の前へ坐った。力なく巻き納める恩人の手紙のなかから妙な臭が立ち上《のぼ》る。一種古ぼけた黴臭《かびくさ》いにおいが上る。過去のにおいである。忘れんとして躊躇《ちゅうちょ》する毛筋の末を引いて、細い縁《えにし》に、絶えるほどにつながるる今と昔を、面《ま》のあたりに結び合わす香《におい》である。
半世の歴史を長き穂の心細きまで逆《さか》しまに尋ぬれば、溯《さかのぼ》るほどに暗澹《あんたん》となる。芽を吹く今の幹なれば、通わぬ脈の枯れ枝《え》の末に、錐《きり》の力の尖《とが》れるを幸《さいわい》と、記憶の命を突き透《とお》すは要なしと云わんよりむしろ無惨《むざん》である。ジェーナスの神は二つの顔に、後《うし》ろをも前をも見る。幸なる小野さんは一つの顔しか持たぬ。背《そびら》を過
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