ある。小野さんが部屋の中を廻り始めて半分《はんぷん》と立たぬうちに、障子《しょうじ》から下女の首が出た。
「御客様」と笑いながら云う。なぜ笑うのか要領を得ぬ。御早うと云っては笑い、御帰んなさいと云っては笑い、御飯ですと云っては笑う。人を見て妄《みだ》りに笑うものは必ず人に求むるところのある証拠である。この下女はたしかに小野さんからある報酬を求めている。
 小野さんは気のない顔をして下女を見たのみである。下女は失望した。
「通しましょうか」
 小野さんは「え、うん」と判然しない返事をする。下女はまた失望した。下女がむやみに笑うのは小野さんに愛嬌《あいきょう》があるからである。愛嬌のない御客は下女から見ると半文《はんもん》の価値もない。小野さんはこの心理を心得ている。今日《こんにち》まで下女の人望を繋《つな》いだのも全くこの自覚に基《もと》づく。小野さんは下女の人望をさえ妄《みだ》りに落す事を好まぬほどの人物である。
 同一の空間は二物によって同時に占有せらるる事|能《あた》わずと昔《むか》しの哲学者が云った。愛嬌と不安が同時に小野さんの脳髄に宿る事はこの哲学者の発明に反する。愛嬌が退《の
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