たんだがね、表は糸公が着けてくれた」
「本物だ。旨《うま》いもんだ。御糸《おいと》さんは藤尾なんぞと違って実用的に出来ているからいい」
「いいか、ふん。彼奴《あいつ》が嫁に行くと少々困るね」
「いい嫁の口はないかい」
「嫁の口か」と宗近君はちょっと甲野さんを見たが、気の乗らない調子で「無い事もないが……」とだらりと言葉の尾を垂れた。甲野さんは問題を転じた。
「御糸さんが嫁に行くと御叔父《おじ》さんも困るね」
「困ったって仕方がない、どうせいつか困るんだもの。――それよりか君は女房を貰わないのかい」
「僕か――だって――食わす事が出来ないもの」
「だから御母《おっか》さんの云う通りに君が家《うち》を襲《つ》いで……」
「そりゃ駄目だよ。母が何と云ったって、僕は厭《いや》なんだ」
「妙だね、どうも。君が判然しないもんだから、藤尾さんも嫁に行かれないんだろう」
「行かれないんじゃない、行かないんだ」
宗近君はだまって鼻をぴくつかせている。
「また鱧《はも》を食わせるな。毎日鱧ばかり食って腹の中が小骨だらけだ。京都と云う所は実に愚《ぐ》な所だ。もういい加減に帰ろうじゃないか」
「帰ってもいい
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