それと信じたる反響か。平生《へいぜい》のかれこれから推《お》して見ると多分そうだろう。よもや、母から頼まれて、曇る胸の、われにさえ恐ろしき淵《ふち》の底に、詮索《さぐり》の錘《おもり》を投げ込むような卑劣な振舞はしまい。けれども、正直な者ほど人には使われやすい。卑劣と知って、人の手先にはならんでも、われに対する好意から、見損《みそく》なった母の意を承《う》けて、御互に面白からぬ結果を、必然の期程《きてい》以前に、家庭のなかに打《ぶ》ち開《ま》ける事がないとも限らん。いずれにしても入らぬ口は発《き》くまい。
 二人はしばらく無言である。隣家《となり》ではまだ琴《こと》を弾《ひ》いている。
「あの琴は生田流《いくたりゅう》かな」と甲野さんは、つかぬ事を聞く。
「寒くなった、狐の袖無《ちゃんちゃん》でも着よう」と宗近君も、つかぬ事を云う。二人は離れ離れに口を発いている。
 丹前の胸を開いて、違棚《ちがいだな》の上から、例の異様な胴衣《チョッキ》を取り下ろして、体《たい》を斜《なな》めに腕を通した時、甲野さんは聞いた。
「その袖無《ちゃんちゃん》は手製か」
「うん、皮は支那に行った友人から貰っ
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