酔《よ》っ払《ぱらい》か。哲学者は余計な事を考え込んで苦《にが》い顔をするから、塩水の酔っ払だろう」
「君見たように叡山《えいざん》へ登るのに、若狭《わかさ》まで突き貫《ぬ》ける男は白雨《ゆうだち》の酔っ払だよ」
「ハハハハそれぞれ酔っ払ってるから妙だ」
 甲野さんの黒い頭はこの時ようやく枕を離れた。光沢《つや》のある髪で湿《しめ》っぽく圧《お》し付けられていた空気が、弾力で膨《ふく》れ上がると、枕の位置が畳の上でちょっと廻った。同時に駱駝《らくだ》の膝掛《ひざかけ》が擦《ず》り落ちながら、裏を返して半分《はんぶ》に折れる。下から、だらしなく腰に捲《ま》き付けた平絎《ひらぐけ》の細帯があらわれる。
「なるほど酔っ払いに違ない」と枕元に畏《かしこ》まった宗近君は、即座に品評を加えた。相手は痩《や》せた体躯《からだ》を持ち上げた肱《ひじ》を二段に伸《のば》して、手の平に胴を支《ささ》えたまま、自分で自分の腰のあたりを睨《ね》め廻していたが
「たしかに酔っ払ってるようだ。君はまた珍らしく畏《かしこ》まってるじゃないか」と一重瞼《ひとえまぶた》の長く切れた間から、宗近君をじろりと見た。
「おれ
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