は、これで正気なんだからね」
「居住《いずまい》だけは正気だ」
「精神も正気だからさ」
「どてら[#「どてら」に傍点]を着て跪坐《かしこまっ》てるのは、酔っ払っていながら、異状がないと得意になるようなものだ。なおおかしいよ。酔っ払いは酔払《よっぱらい》らしくするがいい」
「そうか、それじゃ御免蒙《ごめんこうむ》ろう」と宗近君はすぐさま胡坐《あぐら》をかく。
「君は感心に愚《ぐ》を主張しないからえらい。愚にして賢と心得ているほど片腹《かたはら》痛い事はないものだ」
「諫《いさめ》に従う事流るるがごとしとは僕の事を云ったものだよ」
「酔払っていてもそれなら大丈夫だ」
「なんて生意気を云う君はどうだ。酔払っていると知りながら、胡坐をかく事も跪坐る事も出来ない人間だろう」
「まあ立ん坊だね」と甲野さんは淋《さび》し気に笑った。勢込《いきおいこ》んで喋舌《しゃべ》って来た宗近君は急に真面目《まじめ》になる。甲野さんのこの笑い顔を見ると宗近君はきっと真面目にならなければならぬ。幾多の顔の、幾多の表情のうちで、あるものは必ず人の肺腑《はいふ》に入る。面上の筋肉が我勝《われが》ちに躍《おど》るためでは
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