くなって……」
「そう――でも、藤尾はさっき出ましたよ」
「まだ帰らないですか」と宗近君は平気に聞いた。母は少しく不快な顔をする。
「どうして大森どころじゃない」と独語《ひとりごと》のように云ったが、ちょっと振り返って、
「みんな掛けないか。立ってると草臥《くたびれ》るぜ。もう直《じき》藤尾さんも帰るだろう」と注意を与えた。
「さあ、どうぞ」と母が云う。
「小野さん、掛けたまえ。小夜子さんも、どうです。――甲野さん何だい、それは……」
「父の肖像を卸《おろ》しまして、あなた。持って出るとか申して」
「甲野さん、少し待ちたまえ。もう藤尾さんが帰って来るから」
甲野さんは別に返事もしなかった。
「少し私が持ちましょう」と糸子が低い声で云う。
「なに……」と甲野さんは提《さ》げていた額を床《ゆか》の上へ卸して壁へ立て掛けた。小夜子は俯向《うつむ》きながら、そっと額の方を見る。
「なんぞ藤尾に、御用でも御有《おあん》なさるんですか」
これは母の言葉であった。
「ええ、あるんです」
これは宗近の答であった。
あとは――雨が降る。誰も何とも云わない。この時一|輛《りょう》の車はクレオパトラ
前へ
次へ
全488ページ中470ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング