霞《かす》んで見える。
「藤尾」と知らぬ御母《おっか》さんは呼ぶ。
 男はやっと寛容《くつろい》だ姿で、呼ばれた方へ視線を向ける。呼ばれた当人は俯向《うつむい》ている。
「藤尾」と御母さんは呼び直す。
 女の眼はようやくに頁を離れた。波を打つ廂髪《ひさしがみ》の、白い額に接《つづ》く下から、骨張らぬ細い鼻を承《う》けて、紅《くれない》を寸《すん》に織る唇が――唇をそと滑《すべ》って、頬《ほお》の末としっくり落ち合う※[#「月+咢」、第3水準1−90−51]《あご》が――※[#「月+咢」、第3水準1−90−51]を棄《す》ててなよやかに退《ひ》いて行く咽喉《のど》が――しだいと現実世界に競《せ》り出して来る。
「なに?」と藤尾は答えた。昼と夜の間に立つ人の、昼と夜の間の返事である。
「おや気楽な人だ事。そんなに面白い御本なのかい。――あとで御覧なさいな。失礼じゃないか。――この通り世間見ずのわがままもので、まことに困り切ります。――その御本は小野さんから拝借したのかい。大変|奇麗《きれい》な――汚《よご》さないようになさいよ。本なぞは大事にしないと――」
「大事にしていますわ」
「それじ
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