口のある事さえ忘れて、呆気《あっけ》に取られた宗近君は、
「本来の無一物から出直すとは」と自《みずか》ら自らの頭脳を疑うごとく問い返した。甲野さんは尋常の調子で、落ちつき払った答をする。――
「僕はこの家《うち》も、財産も、みんな藤尾にやってしまった」
「やってしまった? いつ」
「もう少しさっき。その紋尽しを書いている時だ」
「そりゃ……」
「ちょうどその丸に三《み》つ鱗《うろこ》を描《か》いてる時だ。――その模様が一番よく出来ている」
「やってしまうってそう容易《たやす》く……」
「何|要《い》るものか。あればあるほど累《わずらい》だ」
「御叔母《おば》さんは承知したのかい」
「承知しない」
「承知しないものを……それじゃ御叔母さんが困るだろう」
「やらない方が困るんだ」
「だって御叔母さんは始終《しじゅう》君がむやみな事をしやしまいかと思って心配しているんじゃないか」
「僕の母は偽物《にせもの》だよ。君らがみんな欺《あざむ》かれているんだ。母じゃない謎《なぞ》だ。澆季《ぎょうき》の文明の特産物だ」
「そりゃ、あんまり……」
「君は本当の母でないから僕が僻《ひが》んでいると思ってい
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