一個の人として世間に通用せぬ。小野さんはいい色だと思った。
 折柄《おりから》向う座敷の方角から、絹のざわつく音が、曲《ま》がり椽《えん》を伝わって近づいて来る。小野さんは覗《のぞ》き込んだ眼を急に外《そ》らして、素知らぬ顔で、容斎《ようさい》の軸《じく》を真正面に眺めていると、二人の影が敷居口にあらわれた。
 黒縮緬《くろちりめん》の三つ紋を撫《な》で肩《がた》に着こなして、くすんだ半襟《はんえり》に、髷《まげ》ばかりを古風につやつやと光らしている。
「おやいらっしゃい」と御母《おっか》さんは軽く会釈《えしゃく》して、椽に近く座を占める。鶯《うぐいす》も鳴かぬ代りに、目に立つほどの塵もなく掃除の行き届いた庭に、長過ぎるほどの松が、わが物顔に一本控えている。この松とこの御母さんは、何となく同一体のように思われる。
「藤尾が始終《しじゅう》御厄介《ごやっかい》になりまして――さぞわがままばかり申す事でございましょう。まるで小供でございますから――さあ、どうぞ御楽《おらく》に――いつも御挨拶《ごあいさつ》を申さねばならんはずでございますが、つい年を取っているものでございますから、失礼のみ致
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