んでしょう」と小野さんが聞く。
「ええ」
「私《わたし》はもう帰ります」
「なぜです」
「でも何か御用が御在《おあ》りになるんでしょう」
「あったって構わないじゃありませんか。先生じゃありませんか。先生が教えに来ているんだから、誰が帰ったって構わないじゃありませんか」
「しかしあんまり教えないんだから」
「教わっていますとも、これだけ教わっていればたくさんですわ」
「そうでしょうか」
「クレオパトラや、何かたくさん教わってるじゃありませんか」
「クレオパトラぐらいで好ければ、いくらでもあります」
「藤尾、藤尾」と御母さんはしきりに呼ぶ。
「失礼ですがちょっと御免蒙《ごめんこうむ》ります。――なにまだ伺いたい事があるから待っていて下さい」
 藤尾は立った。男は六畳の座敷に取り残される。平床《ひらどこ》に据えた古薩摩《こさつま》の香炉《こうろ》に、いつ焼《た》き残したる煙の迹《あと》か、こぼれた灰の、灰のままに崩《くず》れもせず、藤尾の部屋は昨日《きのう》も今日も静かである。敷き棄てた八反《はったん》の座布団《ざぶとん》に、主《ぬし》を待つ間《ま》の温気《ぬくもり》は、軽く払う春風に、ひっ
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