ち退《の》いた。救世軍はこの時太鼓を敲《たた》いて市中を練り歩《あ》るいている。病院では腹膜炎で患者が虫の気息《いき》を引き取ろうとしている。露西亜《ロシア》では虚無党《きょむとう》が爆裂弾を投げている。停車場《ステーション》では掏摸《すり》が捕《つら》まっている。火事がある。赤子《あかご》が生れかかっている。練兵場《れんぺいば》で新兵が叱られている。身を投げている。人を殺している。藤尾の兄《あに》さんと宗近君は叡山《えいざん》に登っている。
 花の香《か》さえ重きに過ぐる深き巷《ちまた》に、呼び交《か》わしたる男と女の姿が、死の底に滅《め》り込む春の影の上に、明らかに躍《おど》りあがる。宇宙は二人の宇宙である。脈々三千条の血管を越す、若き血潮の、寄せ来《きた》る心臓の扉《とびら》は、恋と開き恋と閉じて、動かざる男女《なんにょ》を、躍然と大空裏《たいくうり》に描《えが》き出している。二人の運命はこの危うき刹那《せつな》に定《さだ》まる。東か西か、微塵《みじん》だに体《たい》を動かせばそれぎりである。呼ぶはただごとではない、呼ばれるのもただごとではない。生死以上の難関を互の間に控えて、羃
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