ぬ数糸の髪を、懐《いだ》いては、泣いては、月日はただ先へと廻《めぐ》るのみの浮世である。片身は焼くに限る。父が死んでからの甲野さんは、何となくこの画を見るのが厭《いや》になった。離れても別状がないと落つきの根城を据《す》えて、咫尺《しせき》に慈顔《じがん》を髣髴《ほうふつ》するは、離れたる親を、記憶の紙に炙《あぶ》り出すのみか、逢《あ》える日を春に待てとの占《うら》にもなる。が、逢おうと思った本人はもう死んでしまった。活きているものはただ眼玉だけである。それすら活きているのみで毫《ごう》も動かない。――甲野さんは茫然《ぼうぜん》として、眼玉を眺《なが》めながら考えている。
 親父も気の毒な事をした。もう少し生きれば生きられる年だのに。髭《ひげ》もまるで白くはない。血色もみずみずしている。死ぬ気は無論なかったろう。気の毒な事をした。どうせ死ぬなら、日本へ帰ってから死んでくれれば好いのに。言い置いて行きたい事も定めてあったろう。聞きたい事、話したい事もたくさんあった。惜しい事をした。好い年をして三遍も四遍も外国へやられて、しかも任地で急病に罹《かか》って頓死《とんし》してしまった。……
 
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