ある。それも丹念に塗りたくって、根気任せに錬《ね》り上げた眼玉ではない。一刷毛《ひとはけ》に輪廓を描《えが》いて、眉と睫《まつげ》の間に自然の影が出来る。下瞼《したまぶた》の垂味《たるみ》が見える。取る年が集って目尻を引張る波足が浮く。その中に瞳《ひとみ》が活《い》きている。動かないでしかも活きている刹那《さつな》の表情を、そのまま画布に落した手腕は、会心の機を早速《さそく》に捕えた非凡の技《ぎ》と云わねばならぬ。甲野さんはこの眼を見るたびに活きてるなと思う。
想界に一瀾《いちらん》を点ずれば、千瀾追うて至る。瀾々《らんらん》相擁《あいよう》して思索の郷《くに》に、吾を忘るるとき、懊悩《おうのう》の頭《こうべ》を上げて、この眼にはたりと逢《あ》えば、あっ、在《あ》ったなと思う。ある時はおやいたかと驚ろく事さえある。――甲野さんがレオパルジから眼を放して、万事を椅子の背に託した時は、常よりも烈《はげ》しくおやいたなと驚ろいた。
思出《おもいで》の種に、亡《な》き人を忍ぶ片身《かたみ》とは、思い出す便《たより》を与えながら、亡き人を故《もと》に返さぬ無惨《むざん》なものである。肌に離さ
前へ
次へ
全488ページ中343ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング