る」と細長い髯《ひげ》を襟《えり》のなかに埋《うず》めた。
「御寝《おやす》みなさい。起きていらっしゃると毒ですから。私はもう御暇《おいとま》をします」
「なに、まあ御話し。もう小夜が帰る時分だから。寝たければ私《わたし》の方で御免蒙《ごめんこうむ》って寝る。それにまだ話も残っているから」
先生は急に胸の中から、手を出して膝《ひざ》の上へ乗せて、双方を一度に打った。
「まあ緩《ゆっ》くりするが好い。今暮れたばかりだ」
迷惑のうちにも小野さんはさすが気の毒に思った。これほどまでに自分を引き留めたいのは、ただ当年の可懐味《なつかしみ》や、一夕《いっせき》の無聊《ぶりょう》ではない。よくよく行く先が案じられて、亡き後の安心を片時《へんじ》も早く、脈の打つ手に握りたいからであろう。
実は夕食《めし》もまだ食わない。いれば耳を傾けたくない話が出る。腰だけはとうから宙に浮いている。しかし先生の様子を見ると無理に洋袴《ズボン》の膝を伸《のば》す訳にもいかない。老人は病を力《つと》めて、わがために強いて元気をつけている。親しみやすき蒲団《ふとん》は片寄せられて、穴ばかりになった。温気《ぬくもり》
前へ
次へ
全488ページ中322ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング