しま》にたけなわなるを、遅日《ちじつ》早く尽きんとする風情《ふぜい》と見て、琴《こと》を抱《いだ》いて恨《うら》み顔なるは、嫁ぎ後《おく》れたる世の常の女の習《ならい》なるに、麈尾《ほっす》に払う折々の空音《そらね》に、琵琶《びわ》らしき響を琴柱《ことじ》に聴いて、本来ならぬ音色《ねいろ》を興あり気に楽しむはいよいよ不思議である。仔細《しさい》は固《もと》より分らぬ。この男とこの女の、互に語る言葉の影から、時々に覗《のぞ》き込んで、いらざる臆測《おくそく》に、うやむやなる恋の八卦《はっけ》をひそかに占《うら》なうばかりである。
「年を取ると嫉妬《しっと》が増して来るものでしょうか」と女は改たまって、小野さんに聞いた。
 小野さんはまた面喰《めんくら》う。詩人は人間を知らねばならん。女の質問には当然答うべき義務がある。けれども知らぬ事は答えられる訳《わけ》がない。中年の人の嫉妬を見た事のない男は、いくら詩人でも文士でも致し方がない。小野さんは文字に堪能《かんのう》なる文学者である。
「そうですね。やっぱり人に因《よ》るでしょう」
 角《かど》を立てない代りに挨拶《あいさつ》は濁っている。
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