東洋の経綸を論ずる。もっとも恋の事は余り語らぬ。語らぬと云わんよりむしろ語れぬのかも知れぬ。宗近君は恐らく恋の真相を解《げ》せぬ男だろう。藤尾の夫《おっと》には不足である。それにもかかわらず気の毒は依然として気の毒である。
 気の毒とは自我を没した言葉である。自我を没した言葉であるからありがたい。小野さんは心のうちで宗近君に気の毒だと思っている。しかしこの気の毒のうちに大いなる己《おのれ》を含んでいる。悪戯《いたずら》をして親の前へ出るときの心持を考えて見るとわかる。気の毒だったと親のために悔ゆる了見《りょうけん》よりは何となく物騒だと云う感じが重《おも》である。わが悪戯が、己れと掛け離れた別人の頭の上に落した迷惑はともかくも、この迷惑が反響して自分の頭ががんと鳴るのが気味が悪い。雷《らい》の嫌《きらい》なものが、雷を封じた雲の峰の前へ出ると、少しく逡巡《しゅんじゅん》するのと一般である。ただの気の毒とはよほど趣《おもむき》が違う。けれども小野さんはこれを称して気の毒と云っている。小野さんは自分の感じを気の毒以下に分解するのを好まぬからであろう。
「散歩ですか」と小野さんは鄭寧《ていね
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