おあらし》の恋。九寸五分の恋です」と小野さんが云う。
「九寸五分の恋が紫なんですか」
「九寸五分の恋が紫なんじゃない、紫の恋が九寸五分なんです」
「恋を斬《き》ると紫色の血が出るというのですか」
「恋が怒《おこ》ると九寸五分が紫色に閃《ひか》ると云うのです」
「沙翁がそんな事を書いているんですか」
「沙翁《シェクスピヤ》が描《か》いた所を私《わたし》が評したのです。――安図尼《アントニイ》が羅馬《ロウマ》でオクテヴィアと結婚した時に――使のものが結婚の報道《しらせ》を持って来た時に――クレオパトラの……」
「紫が嫉妬《しっと》で濃く染まったんでしょう」
「紫が埃及《エジプト》の日で焦《こ》げると、冷たい短刀が光ります」
「このくらいの濃さ加減なら大丈夫ですか」と言う間《ま》もなく長い袖《そで》が再び閃《ひらめ》いた。小野さんはちょっと話の腰を折られた。相手に求むるところがある時でさえ、腰を折らねば承知をせぬ女である。毒気を抜いた女は得意に男の顔を眺《なが》めている。
「そこでクレオパトラがどうしました」と抑《おさ》えた女は再び手綱《たづな》を緩《ゆる》める。小野さんは馳《か》け出さなけ
前へ
次へ
全488ページ中30ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング