ぜず、藤尾は眼を上げなかった。ただ畳に落す靴足袋の先をちらりと見ただけでははあと悟った。小野さんは座に着かぬ先から、もう舐《な》められている。
「今日《こんにち》は……」と座りながら笑いかける。
「いらっしゃい」と真面目な顔をして、始めて相手をまともに見る。見られた小野さんの眸《ひとみ》はぐらついた。
「御無沙汰《ごぶさた》をしました」とすぐ言訳を添える。
「いいえ」と女は遮《さえぎ》った。ただしそれぎりである。
男は出鼻を挫《くじ》かれた気持で、どこから出直そうかと考える。座敷は例のごとく静である。
「だいぶ暖《あった》かになりました」
「ええ」
座敷のなかにこの二句を点じただけで、後《あと》は故《もと》のごとく静になる。ところへ鯉《こい》がぽちゃりとまた跳《はね》る。池は東側で、小野さんの背中に当る。小野さんはちょっと振り向いて鯉が[#「鯉が」に傍点]と云おうとして、女の方を見ると、相手の眼は南側の辛夷《こぶし》に注《つ》いている。――壺《つぼ》のごとく長い弁《はなびら》から、濃い紫《むらさき》が春を追うて抜け出した後は、残骸《なきがら》に空《むな》しき茶の汚染《しみ》を皺立《
前へ
次へ
全488ページ中271ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング