甲野さんの日記には鳥入《とりいって》雲無迹《くもにあとなく》、魚行《うおゆいて》水有紋《みずにもんあり》と云う一聯が律にも絶句にもならず、そのまま楷書《かいしょ》でかいてある。春光は天地を蔽《おお》わず、任意に人の心を悦《よろこ》ばしむ。ただ謎の女には幸《さいわい》せぬ。
「何だって、あんなに跳ねるんだろうね」と聞いた。謎の女が謎を考えるごとく、緋鯉もむやみに跳ねるのであろう。酔狂《すいきょう》と云えば双方とも酔狂である。藤尾は何とも答えなかった。
 浮き立ての蓮の葉を称して支那の詩人は青銭《せいせん》を畳むと云った。銭《ぜに》のような重い感じは無論ない。しかし水際に始めて昨日、今日の嫩《わか》い命を托して、娑婆《しゃば》の風に薄い顔を曝《さら》すうちは銭のごとく細かである。色も全く青いとは云えぬ。美濃紙《みのがみ》の薄きに過ぎて、重苦しと碧《みどり》を厭《いと》う柔らかき茶に、日ごとに冒《おか》す緑青《ろくしょう》を交ぜた葉の上には、鯉の躍《おど》った、春の名残が、吹けば飛ぶ、置けば崩れぬ珠《たま》となって転がっている。――答をせぬ藤尾はただ眼前の景色を眺《なが》める。鯉はまた躍った
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