つつも、手答《てごたえ》のあれかしと念ずる様子である。
「まだ、そこにいらしったんですか」と女は落ちついた調子で云う。これは意外な手答である。天に向って彎《ひ》ける弓の、危うくも吾《わ》が頭の上に、瓢箪羽《ひょうたんば》を舞い戻したようなものである。男の我を忘れて、相手を見守るに引き反《か》えて、女は始めより、わが前に坐《す》われる人の存在を、膝《ひざ》に開《ひら》ける一冊のうちに見失っていたと見える。その癖、女はこの書物を、箔《はく》美しと見つけた時、今|携《たずさ》えたる男の手から※[#「てへん+宛」、第3水準1−84−80]《も》ぎ取るようにして、読み始めたのである。
 男は「ええ」と申したぎりであった。
「この女は羅馬《ロウマ》へ行くつもりなんでしょうか」
 女は腑《ふ》に落ちぬ不快の面持《おももち》で男の顔を見た。小野さんは「クレオパトラ」の行為に対して責任を持たねばならぬ。
「行きはしませんよ。行きはしませんよ」
と縁もない女王を弁護したような事を云う。
「行かないの? 私だって行かないわ」と女はようやく納得《なっとく》する。小野さんは暗い隧道《トンネル》を辛《かろ》うじて
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