咽喉《のど》を滑《すべ》り出たのである。女は固《もと》より曲者《くせもの》である。「え?」と云わせたまま、しばらくは何にも云わぬ。
「何ですか」と男は二の句を継《つ》いだ。継がねばせっかくの呼吸が合わぬ。呼吸が合わねば不安である。相手を眼中に置くものは、王侯といえども常にこの感を起す。いわんや今、紫の女のほかに、何ものも映《うつ》らぬ男の眼には、二の句は固《もと》より愚かである。
女はまだ何《なん》にも言わぬ。床《とこ》に懸《か》けた容斎《ようさい》の、小松に交《まじ》る稚子髷《ちごまげ》の、太刀持《たちもち》こそ、昔《むか》しから長閑《のどか》である。狩衣《かりぎぬ》に、鹿毛《かげ》なる駒《こま》の主人《あるじ》は、事なきに慣《な》れし殿上人《てんじょうびと》の常か、動く景色《けしき》も見えぬ。ただ男だけは気が気でない。一の矢はあだに落ちた、二の矢のあたった所は判然せぬ。これが外《そ》れれば、また継がねばならぬ。男は気息《いき》を凝《こ》らして女の顔を見詰めている。肉の足らぬ細面《ほそおもて》に予期の情《じょう》を漲《みなぎ》らして、重きに過ぐる唇の、奇《き》か偶《ぐう》かを疑がい
前へ
次へ
全488ページ中26ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング