だ至らざるものである。最上の戦には一語をも交うる事を許さぬ。拈華《ねんげ》の一拶《いっさつ》は、ここを去る八千里ならざるも、ついに不言にしてまた不語である。ただ躊躇《ちゅうちょ》する事|刹那《せつな》なるに、虚をうつ悪魔は、思うつぼに迷《まよい》と書き、惑《まどい》と書き、失われたる人の子、と書いて、すわと云う間《ま》に引き上げる。下界万丈《げかいばんじょう》の鬼火《おにび》に、腥《なまぐ》さき青燐《せいりん》を筆の穂に吹いて、会釈《えしゃく》もなく描《えが》き出《いだ》せる文字は、白髪《しらが》をたわし[#「たわし」に傍点]にして洗っても容易《たやす》くは消えぬ。笑ったが最後、男はこの笑を引き戻す訳《わけ》には行くまい。
「小野《おの》さん」と女が呼びかけた。
「え?」とすぐ応じた男は、崩《くず》れた口元を立て直す暇《いとま》もない。唇に笑《えみ》を帯びたのは、半ば無意識にあらわれたる、心の波を、手持無沙汰《てもちぶさた》に草書に崩《くず》したまでであって、崩したものの尽きんとする間際《まぎわ》に、崩すべき第二の波の来ぬのを煩《わずら》っていた折であるから、渡りに船の「え?」は心安く
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