くして、満腔《まんこう》の誠を捧げてわが玩具《おもちゃ》となるを栄誉と思う。彼を愛するの資格をわれに求むる事は露知らず、ただ愛せらるべき資格を、わが眼に、わが眉《まゆ》に、わが唇《くちびる》に、さてはわが才に認めてひたすらに渇仰《かつごう》する。藤尾の恋は小野さんでなくてはならぬ。
唯々《いい》として来《く》るべきはずの小野さんが四五日見えぬ。藤尾は薄き粧《よそおい》を日ごとにして我《が》の角《かど》を鏡の裡《うち》に隠していた。その五日目の昨夕《ゆうべ》! 驚くうちは楽《たのしみ》がある! 女は仕合せなものだ! 嘲《あざけり》の鈴《れい》はいまだに耳の底に鳴っている。小机に肱《ひじ》を持たしたまま、燃ゆる黒髪を照る日に打たして身動もせぬ。背を椽《えん》に、顔を影なる居住《いずまい》は、考え事に明海《あかるみ》を忌《い》む、昔からの掟《おきて》である。
縄なくて十重《とえ》に括《くく》る虜《とりこ》は、捕われたるを誇顔《ほこりがお》に、麾《さしまね》けば来り、指《ゆびさ》せば走るを、他意なしとのみ弄びたるに、奇麗な葉を裏返せば毛虫がいる。思う人と併《なら》んで姿見に向った時、大丈夫
前へ
次へ
全488ページ中245ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング