なかった。昨夜《ゆうべ》は出来ぬ工夫を無理にして、旧師への義理立てに、先生と小夜子《さよこ》を博覧会へ案内した。恩は昔受けても今受けても恩である。恩を忘れるような不人情な詩人ではない。一飯漂母《いっぱんひょうぼ》を徳とすと云う故事を孤堂先生から教わった事さえある。先生のためならばこれから先どこまでも力になるつもりでいる。人の難儀を救うのは美くしい詩人の義務である。この義務を果して、濃《こま》やかな人情を、得意の現在に、わが歴史の一部として、思出の詩料に残すのは温厚なる小野さんにもっとも恰好《かっこう》な優しい振舞である。ただ何事も金がなくては出来ぬ。金は藤尾と結婚せねば出来ぬ。結婚が一日早く成立すれば、一日早く孤堂先生の世話が思うように出来る。――小野さんは机の前でこう云う論理を発明した。
 小夜子を捨てるためではない、孤堂先生の世話が出来るために、早く藤尾と結婚してしまわなければならぬ。――小野さんは自分の考《かんがえ》に間違はないはずだと思う。人が聞けば立派に弁解が立つと思う。小野さんは頭脳の明暸《めいりょう》な男である。
 ここまで考えた小野さんはやがて机の上に置いてある、茶の表
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