る。
二
紅《くれない》を弥生《やよい》に包む昼|酣《たけなわ》なるに、春を抽《ぬき》んずる紫《むらさき》の濃き一点を、天地《あめつち》の眠れるなかに、鮮《あざ》やかに滴《した》たらしたるがごとき女である。夢の世を夢よりも艶《あでやか》に眺《なが》めしむる黒髪を、乱るるなと畳める鬢《びん》の上には、玉虫貝《たまむしかい》を冴々《さえさえ》と菫《すみれ》に刻んで、細き金脚《きんあし》にはっしと打ち込んでいる。静かなる昼の、遠き世に心を奪い去らんとするを、黒き眸《ひとみ》のさと動けば、見る人は、あなやと我に帰る。半滴《はんてき》のひろがりに、一瞬の短かきを偸《ぬす》んで、疾風の威《い》を作《な》すは、春にいて春を制する深き眼《まなこ》である。この瞳《ひとみ》を遡《さかのぼ》って、魔力の境《きょう》を窮《きわ》むるとき、桃源《とうげん》に骨を白うして、再び塵寰《じんかん》に帰るを得ず。ただの夢ではない。糢糊《もこ》たる夢の大いなるうちに、燦《さん》たる一点の妖星《ようせい》が、死ぬるまで我を見よと、紫色の、眉《まゆ》近く逼《せま》るのである。女は紫色の着物を着ている。
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