吐を吐く前に、ちょっとあの景色を見なさい。あれを見るとせっかくの反吐も残念ながら収まっちまう」
と例の桜の杖《つえ》で、杉の間を指す。天を封ずる老幹の亭々と行儀よく並ぶ隙間《すきま》に、的※[#「白+樂」、第3水準1−88−69]《てきれき》と近江《おうみ》の湖《うみ》が光った。
「なるほど」と甲野さんは眸《ひとみ》を凝《こ》らす。
 鏡を延べたとばかりでは飽《あ》き足らぬ。琵琶《びわ》の銘ある鏡の明かなるを忌《い》んで、叡山の天狗共が、宵《よい》に偸《ぬす》んだ神酒《みき》の酔《えい》に乗じて、曇れる気息《いき》を一面に吹き掛けたように――光るものの底に沈んだ上には、野と山にはびこる陽炎《かげろう》を巨人の絵の具皿にあつめて、ただ一刷《ひとはけ》に抹《なす》り付けた、瀲※[#「さんずい+艶」、第4水準2−79−53]《れんえん》たる春色が、十里のほかに糢糊《もこ》と棚引《たなび》いている。
「なるほど」と甲野さんはまた繰り返した。
「なるほどだけか。君は何を見せてやっても嬉《うれ》しがらない男だね」
「見せてやるなんて、自分が作ったものじゃあるまいし」
「そう云う恩知らずは、得て哲学
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