阿父様《とうさま》がおっしゃる。繻子《しゅす》の袖口は手頸《てくび》に滑《すべ》りやすい。絹糸を細長く目に貫《ぬ》いたまま、針差の紅《くれない》をぷつりと刺して立ち上がる。盛り上がる古桐の長い胴に、鮮《あざや》かに眼を醒《さ》ませと、へ[#「へ」に傍点]の字に渡す糸の数々を、幾度か抑えて、幾度か撥《は》ねた。曲はたしか小督《こごう》であった。狂う指の、憂《う》き昼を、くちゃくちゃに揉《も》みこなしたと思う頃、阿父様は御苦労と手ずから御茶を入れて下さった。京は春の、雨の、琴《こと》の京である。なかでも琴は京によう似合う。琴の好《すき》な自分は、やはり静かな京に住むが分である。古い京から抜けて来た身は、闇《やみ》を破る烏《からす》の、飛び出して見て、そぞろ黒きに驚ろき、舞い戻らんとする夜はからりと明け離れたようなものである。こんな事なら琴の代りに洋琴《ピアノ》でも習って置けば善かった。英語も昔のままで、今はおおかた忘れている。阿父《とうさま》は女にそんなものは必要がないとおっしゃる。先の世に住み古るしたる人を便りに、小野さんには、追いつく事も出来ぬように後れてしまった。住み古るした人の世は
前へ 次へ
全488ページ中176ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング