くなる。
 やさしく咽喉《のど》に滑《す》べり込む長い顎《あご》を奥へ引いて、上眼に小野さんの姿を眺《なが》めた小夜子は、変る眼鏡を見た。変る髭《ひげ》を見た。変る髪の風《ふう》と変る装《よそおい》とを見た。すべての変るものを見た時、心の底でそっと嘆息《ためいき》を吐《つ》いた。ああ。
「京都の花はどうです。もう遅いでしょう」
 小野さんは急に話を京都へ移した。病人を慰めるには病気の話をする。好かぬ昔に飛び込んで、ありがたくほどけ掛けた記憶の綯《より》を逆《ぎゃく》に戻すは、詩人の同情である。小夜子は急に小野さんと近づいた。
「もう遅いでしょう。立つ前にちょっと嵐山《あらしやま》へ参りましたがその時がちょうど八分通りでした」
「そのくらいでしょう、嵐山《あらしやま》は早いですから。それは結構でした。どなたとごいっしょに」
 花を看《み》る人は星月夜のごとく夥《おびただ》しい。しかしいっしょに行く人は天を限り地を限って父よりほかにない。父でなければ――あとは胸のなかでも名は言わなかった。
「やっぱり阿父《おとっさん》とですか」
「ええ」
「面白かったでしょう」と口の先で云う。小夜子はなぜ
前へ 次へ
全488ページ中171ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング