木+棠」、第3水準1−86−14]《とう》に相輪《そうりん》と云い、院に浄土と云うも、ただ名と年と歴史を記《き》して吾事《わがこと》畢《おわ》ると思うは屍《しかばね》を抱《いだ》いて活ける人を髣髴《ほうふつ》するようなものである。見るは名あるがためではない。観ずるは見るがためではない。太上《たいじょう》は形を離れて普遍の念に入る。――甲野さんが叡山《えいざん》に登って叡山を知らぬはこの故である。
過去は死んでいる。大法鼓《だいほうこ》を鳴らし、大法螺《だいほうら》を吹き、大法幢《だいほうとう》を樹《た》てて王城の鬼門を護《まも》りし昔《むか》しは知らず、中堂に仏眠りて天蓋《てんがい》に蜘蛛《くも》の糸引く古伽藍《ふるがらん》を、今《いま》さらのように桓武《かんむ》天皇の御宇《ぎょう》から堀り起して、無用の詮議《せんぎ》に、千古の泥を洗い落すは、一日に四十八時間の夜昼ある閑人《ひまじん》の所作《しょさ》である。現在は刻《こく》をきざんで吾《われ》を待つ。有為《うい》の天下は眼前に落ち来《きた》る。双の腕《かいな》は風を截《き》って乾坤《けんこん》に鳴る。――これだから宗近君は叡山に登り
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