「アハハハハ若狭へ出ちゃ大変だ」と老人は大いに愉快そうである。糸子も丸顔に二重瞼《ふたえまぶた》の波を寄せた。
「一体御前方はただ歩行《ある》くばかりで飛脚《ひきゃく》同然だからいけない。――叡山には東塔《とうとう》、西塔《さいとう》、横川《よかわ》とあって、その三ヵ所を毎日往来してそれを修業にしている人もあるくらい広い所だ。ただ登って下りるだけならどこの山へ登ったって同じ事じゃないか」
「なに、ただの山のつもりで登ったんです」
「アハハハそれじゃ足の裏へ豆を出しに登ったようなものだ」
「豆はたしかです。豆はそっちの受持です」と笑ながら甲野さんの方を見る。哲学者もむずかしい顔ばかりはしておられぬ。灯火《ともしび》は明かに揺れる。糸子は袖《そで》を口へ当てて、崩《くず》しかかった笑顔の収まり際《ぎわ》に頭《つむり》を上げながら、眸《ひとみ》を豆の受持ち手の方へ動かした。眼を動かさんとするものは、まず顔を動かす。火事場に泥棒を働らくの格である。家庭的の女にもこのくらいな作略《さりゃく》はある。素知らぬ顔の甲野さんは、すぐ問題を呈出した。
「御叔父《おじ》さん、東塔とか西塔とか云うのは何の
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