ぬ情《なさ》けの油を注《さ》して、要なき屍《しかばね》に長夜《ちょうや》の踊をおどらしむる滑稽《こっけい》である。遐《はるか》なる心を持てるものは、遐なる国をこそ慕え。
 考えるともなく考えた甲野君はようやくに身を起した。また歩行《ある》かねばならぬ。見たくもない叡山を見て、いらざる豆の数々に、役にも立たぬ登山の痕迹《こんせき》を、二三日がほどは、苦しき記念と残さねばならぬ。苦しき記念が必要ならば数えて白頭に至って尽きぬほどある。裂いて髄《ずい》にいって消えぬほどある。いたずらに足の底に膨《ふく》れ上る豆の十や二十――と切り石の鋭どき上に半《なか》ば掛けたる編み上げの踵《かかと》を見下ろす途端《とたん》、石はきりりと面《めん》を更《か》えて、乗せかけた足をすわと云う間《ま》に二尺ほど滑《す》べらした。甲野さんは
「万里の道を見ず」
と小声に吟《ぎん》じながら、傘《かさ》を力に、岨路《そばみち》を登り詰めると、急に折れた胸突坂《むなつきざか》が、下から来る人を天に誘《いざな》う風情《ふぜい》で帽に逼《せま》って立っている。甲野さんは真廂《まびさし》を煽《あお》って坂の下から真一文字に坂の
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