う。
「父一人で忙がしいものですから、つい御無沙汰《ごぶさた》をして……」
「博覧会へもいらっしゃらないの」
「いいえ、まだ」
「向島《むこうじま》は」
「まだどこへも行かないの」
 宅《うち》にばかりいて、よくこう満足していられると藤尾が思う。――糸子の眼尻には答えるたびに笑の影が翳《さ》す。
「そんなに御用が御在《おあ》りなの」
「なに大した用じゃないんですけれども……」
 糸子の答は大概半分で切れてしまう。
「少しは出ないと毒ですよ。春は一年に一度しか来ませんわ」
「そうね。わたしもそう思ってるんですけれども……」
「一年に一度だけれども、死ねば今年ぎりじゃあありませんか」
「ホホホホ死んじゃつまらないわね」
 二人の会話は互に、死と云う字を貫いて、左右に飛び離れた。上野は浅草へ行く路《みち》である。同時に日本橋へ行く路である。藤尾は相手を墓の向側《むこうがわ》へ連れて行こうとした。相手は墓に向側のある事さえ知らなかった。
「今に兄が御嫁でも貰ったら、出てあるきますわ」と糸子が云う。家庭的の婦女は家庭的の答えをする。男の用を足すために生れたと覚悟をしている女ほど憐れなものはない。
前へ 次へ
全488ページ中109ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング