のはかなきに親しむ。顧《かえり》みると母がある、姉がある、菓子がある、鯉《こい》の幟《のぼり》がある。顧みれば顧みるほど華麗《はなやか》である。小野さんは趣《おもむき》が違う。自然の径路《けいろ》を逆《さか》しまにして、暗い土から、根を振り切って、日の透《とお》る波の、明るい渚《なぎさ》へ漂《ただよ》うて来た。――坑《あな》の底で生れて一段ごとに美しい浮世へ近寄るためには二十七年かかった。二十七年の歴史を過去の節穴《ふしあな》から覗《のぞ》いて見ると、遠くなればなるほど暗い。ただその途中に一点の紅《くれない》がほのかに揺《うご》いている。東京へ来《き》たてにはこの紅が恋しくて、寒い記憶を繰り返すのも厭《いと》わず、たびたび過去の節穴を覗いては、長き夜《よ》を、永き日を、あるは時雨《しぐ》るるをゆかしく暮らした。今は――紅もだいぶ遠退《とおの》いた。その上、色もよほど褪《さ》めた。小野さんは節穴を覗く事を怠《おこ》たるようになった。
 過去の節穴を塞《ふさ》ぎかけたものは現在に満足する。現在が不景気だと未来を製造する。小野さんの現在は薔薇《ばら》である。薔薇の蕾《つぼみ》である。小野さんは未来を製造する必要はない。蕾《つぼ》んだ薔薇を一面に開かせればそれが自《おのず》からなる彼の未来である。未来の節穴を得意の管《くだ》から眺《なが》めると、薔薇はもう開いている。手を出せば捕《つら》まえられそうである。早く捕まえろと誰かが耳の傍《そば》で云う。小野さんは博士論文を書こうと決心した。
 論文が出来たから博士になるものか、博士になるために論文が出来るものか、博士に聞いて見なければ分らぬが、とにかく論文を書かねばならぬ。ただの論文ではならぬ、必《かなら》ず博士論文でなくてはならぬ。博士は学者のうちで色のもっとも見事なるものである。未来の管を覗くたびに博士の二字が金色《こんじき》に燃えている。博士の傍には金時計が天から懸《かか》っている。時計の下には赤い柘榴石《ガーネット》が心臓の焔《ほのお》となって揺れている。その側《わき》に黒い眼の藤尾さんが繊《ほそ》い腕を出して手招《てまね》ぎをしている。すべてが美くしい画《え》である。詩人の理想はこの画の中の人物となるにある。
 昔《むか》しタンタラスと云う人があった。わるい事をした罰《ばち》で、苛《ひど》い目に逢《お》うたと書いてある
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