。身体《からだ》は肩深く水に浸《ひた》っている。頭の上には旨《うま》そうな菓物《くだもの》が累々《るいるい》と枝をたわわに結実《な》っている。タンタラスは咽喉《のど》が渇《かわ》く。水を飲もうとすると水が退《ひ》いて行く。タンタラスは腹が減る。菓物を食おうとすると菓物が逃げて行く。タンタラスの口が一尺動くと向うでも一尺動く。二尺|前《すす》むと向うでも二尺前む。三尺四尺は愚か、千里を行き尽しても、タンタラスは腹が減り通しで、咽喉が渇き続けである。おおかた今でも水と菓物を追っ懸《か》けて歩いてるだろう。――未来の管を覗くたびに、小野さんは、何だかタンタラスの子分のような気がする。それのみではない。時によると藤尾さんがつんと澄ましている事がある。長い眉《まゆ》を押しつけたように短かくして、屹《きっ》と睨《にら》めている事がある。柘榴石がぱっと燃えて、※[#「陷のつくり+炎」、第3水準1−87−64]のなかに、女の姿が、包まれながら消えて行く事がある。博士の二字がだんだん薄くなって剥《は》げながら暗くなる事がある。時計が遥《はる》かな天から隕石《いんせき》のように落ちて来て、割れる事がある。その時はぴしりと云う音がする。小野さんは詩人であるからいろいろな未来を描《えが》き出す。
 机の前に頬杖《ほおづえ》を突いて、色硝子《いろガラス》の一輪挿《いちりんざし》をぱっと蔽《おお》う椿《つばき》の花の奥に、小野さんは、例によって自分の未来を覗いている。幾通りもある未来のなかで今日は一層出来がわるい。
「この時計をあなたに上げたいんだけれどもと女が云う。どうか下さいと小野さんが手を出す。女がその手をぴしゃりと平手《ひらて》でたたいて、御気の毒様もう約束済ですと云う。じゃ時計は入りません、しかしあなたは……と聞くと、私? 私は無論時計にくっ付いているんですと向《むこう》をむいて、すたすた歩き出す」
 小野さんは、ここまで未来をこしらえて見たが、余り残刻《ざんこく》なのに驚いて、また最初から出直そうとして、少し痛くなり掛けた※[#「月+咢」、第3水準1−90−51]《あご》を持ち上げると、障子《しょうじ》が、すうと開《あ》いて、御手紙ですと下女が封書を置いて行く。
「小野清三様」と子昂流《すごうりゅう》にかいた名宛《なあて》を見た時、小野さんは、急に両肱《りょうひじ》に力を入れて、机
前へ 次へ
全244ページ中39ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング