虞美人草
夏目漱石

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)元来《がんらい》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)中途|半端《はんぱ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「條の木に代えて栩のつくり」、第3水準1−90−31]

 [#…]:返り点
 (例)|入[#レ]道《みちにいる》無言客《むごんのかく》。
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        一

「随分遠いね。元来《がんらい》どこから登るのだ」
と一人《ひとり》が手巾《ハンケチ》で額《ひたい》を拭きながら立ち留《どま》った。
「どこか己《おれ》にも判然せんがね。どこから登ったって、同じ事だ。山はあすこに見えているんだから」
と顔も体躯《からだ》も四角に出来上った男が無雑作《むぞうさ》に答えた。
 反《そり》を打った中折れの茶の廂《ひさし》の下から、深き眉《まゆ》を動かしながら、見上げる頭の上には、微茫《かすか》なる春の空の、底までも藍《あい》を漂わして、吹けば揺《うご》くかと怪しまるるほど柔らかき中に屹然《きつぜん》として、どうする気かと云《い》わぬばかりに叡山《えいざん》が聳《そび》えている。
「恐ろしい頑固《がんこ》な山だなあ」と四角な胸を突き出して、ちょっと桜の杖《つえ》に身を倚《も》たせていたが、
「あんなに見えるんだから、訳《わけ》はない」と今度は叡山《えいざん》を軽蔑《けいべつ》したような事を云う。
「あんなに見えるって、見えるのは今朝《けさ》宿を立つ時から見えている。京都へ来て叡山が見えなくなっちゃ大変だ」
「だから見えてるから、好いじゃないか。余計な事を云わずに歩行《ある》いていれば自然と山の上へ出るさ」
 細長い男は返事もせずに、帽子を脱いで、胸のあたりを煽《あお》いでいる。日頃《ひごろ》からなる廂《ひさし》に遮《さえ》ぎられて、菜の花を染め出す春の強き日を受けぬ広き額《ひたい》だけは目立って蒼白《あおしろ》い。
「おい、今から休息しちゃ大変だ、さあ早く行こう」
 相手は汗ばんだ額を、思うまま春風に曝《さら》して、粘《ねば》り着いた黒髪の、逆《さか》に飛ばぬを恨《うら》むごとくに、手巾《ハンケチ》を片手に握って、額とも云わず、顔とも云わず、頸窩《ぼんのくぼ》
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