酔《よ》っ払《ぱらい》か。哲学者は余計な事を考え込んで苦《にが》い顔をするから、塩水の酔っ払だろう」
「君見たように叡山《えいざん》へ登るのに、若狭《わかさ》まで突き貫《ぬ》ける男は白雨《ゆうだち》の酔っ払だよ」
「ハハハハそれぞれ酔っ払ってるから妙だ」
甲野さんの黒い頭はこの時ようやく枕を離れた。光沢《つや》のある髪で湿《しめ》っぽく圧《お》し付けられていた空気が、弾力で膨《ふく》れ上がると、枕の位置が畳の上でちょっと廻った。同時に駱駝《らくだ》の膝掛《ひざかけ》が擦《ず》り落ちながら、裏を返して半分《はんぶ》に折れる。下から、だらしなく腰に捲《ま》き付けた平絎《ひらぐけ》の細帯があらわれる。
「なるほど酔っ払いに違ない」と枕元に畏《かしこ》まった宗近君は、即座に品評を加えた。相手は痩《や》せた体躯《からだ》を持ち上げた肱《ひじ》を二段に伸《のば》して、手の平に胴を支《ささ》えたまま、自分で自分の腰のあたりを睨《ね》め廻していたが
「たしかに酔っ払ってるようだ。君はまた珍らしく畏《かしこ》まってるじゃないか」と一重瞼《ひとえまぶた》の長く切れた間から、宗近君をじろりと見た。
「おれは、これで正気なんだからね」
「居住《いずまい》だけは正気だ」
「精神も正気だからさ」
「どてら[#「どてら」に傍点]を着て跪坐《かしこまっ》てるのは、酔っ払っていながら、異状がないと得意になるようなものだ。なおおかしいよ。酔っ払いは酔払《よっぱらい》らしくするがいい」
「そうか、それじゃ御免蒙《ごめんこうむ》ろう」と宗近君はすぐさま胡坐《あぐら》をかく。
「君は感心に愚《ぐ》を主張しないからえらい。愚にして賢と心得ているほど片腹《かたはら》痛い事はないものだ」
「諫《いさめ》に従う事流るるがごとしとは僕の事を云ったものだよ」
「酔払っていてもそれなら大丈夫だ」
「なんて生意気を云う君はどうだ。酔払っていると知りながら、胡坐をかく事も跪坐る事も出来ない人間だろう」
「まあ立ん坊だね」と甲野さんは淋《さび》し気に笑った。勢込《いきおいこ》んで喋舌《しゃべ》って来た宗近君は急に真面目《まじめ》になる。甲野さんのこの笑い顔を見ると宗近君はきっと真面目にならなければならぬ。幾多の顔の、幾多の表情のうちで、あるものは必ず人の肺腑《はいふ》に入る。面上の筋肉が我勝《われが》ちに躍《おど》るためでは
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