します。――どうも実に赤児《ねんね》で、困り切ります、駄々ばかり捏《こ》ねまして――でも英語だけは御蔭《おかげ》さまで大変好きな模様で――近頃ではだいぶむずかしいものが読めるそうで、自分だけはなかなか得意でおります。――何兄がいるのでございますから、教えて貰えば好いのでございますが、――どうも、その、やっぱり兄弟は行《ゆ》かんものと見えまして――」
御母さんの弁舌は滾々《こんこん》としてみごとである。小野さんは一字の間投詞を挟《さしはさ》む遑《いと》まなく、口車《くちぐるま》に乗って馳《か》けて行く。行く先は固《もと》より判然せぬ。藤尾は黙って最前小野さんから借りた書物を開いて続《つづき》を読んでいる。
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「花を墓に、墓に口を接吻《くちづけ》して、憂《う》きわれを、ひたふるに嘆きたる女王は、浴湯《ゆ》をこそと召す。浴《ゆあ》みしたる後《のち》は夕餉《ゆうげ》をこそと召す。この時|賤《いや》しき厠卒《こもの》ありて小さき籃《かご》に無花果《いちじく》を盛りて参らす。女王の該撒《シイザア》に送れる文《ふみ》に云う。願わくは安図尼《アントニイ》と同じ墓にわれを埋《うず》めたまえと。無花果《いちじく》の繁れる青き葉陰にはナイルの泥《つち》の※[#「陷のつくり+炎」、第3水準1−87−64]《ほのお》の舌《した》を冷やしたる毒蛇《どくだ》を、そっと忍ばせたり。該撒《シイザア》の使は走る。闥《たつ》を排して眼《まなこ》を射れば――黄金《こがね》の寝台に、位高き装《よそおい》を今日と凝《こ》らして、女王の屍《しかばね》は是非なく横《よこた》わる。アイリスと呼ぶは女王の足のあたりにこの世を捨てぬ。チャーミオンと名づけたるは、女王の頭《かしら》のあたりに、月黒き夜《よ》の露をあつめて、千顆《せんか》の珠《たま》を鋳たる冠《かんむり》の、今落ちんとするを力なく支う。闥を排したる該撒の使はこはいかにと云う。埃及《エジプト》の御代《みよ》しろし召す人の最後ぞ、かくありてこそと、チャーミオンは言い終って、倒れながらに目を瞑《ねむ》る」
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埃及の御代しろし召す人の最後ぞ、かくありてこそと云う最後の一句は、焚《た》き罩《こ》むる錬香《ねりこう》の尽きなんとして幽《かす》かなる尾を虚冥《きょめい》に曳《ひ》くごとく、全《まった》き頁《ページ》が淡く
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