男は無言のままあとに後《おく》れてしまう。
春はものの句になりやすき京の町を、七条から一条まで横に貫《つら》ぬいて、煙《けぶ》る柳の間から、温《ぬく》き水打つ白き布《ぬの》を、高野川《たかのがわ》の磧《かわら》に数え尽くして、長々と北にうねる路《みち》を、おおかたは二里余りも来たら、山は自《おのず》から左右に逼《せま》って、脚下に奔《はし》る潺湲《せんかん》の響も、折れるほどに曲るほどに、あるは、こなた、あるは、かなたと鳴る。山に入りて春は更《ふ》けたるを、山を極《きわ》めたらば春はまだ残る雪に寒かろうと、見上げる峰の裾《すそ》を縫《ぬ》うて、暗き陰に走る一条《ひとすじ》の路に、爪上《つまあが》りなる向うから大原女《おはらめ》が来る。牛が来る。京の春は牛の尿《いばり》の尽きざるほどに、長くかつ静かである。
「おおい」と後れた男は立ち留《どま》りながら、先《さ》きなる友を呼んだ。おおいと云う声が白く光る路を、春風に送られながら、のそり閑《かん》と行き尽して、萱《かや》ばかりなる突き当りの山にぶつかった時、一丁先きに動いていた四角な影ははたと留った。瘠せた男は、長い手を肩より高く伸《の》して、返れ返れと二度ほど揺《ゆす》って見せる。桜の杖《つえ》が暖かき日を受けて、またぴかりと肩の先に光ったと思う間《ま》もなく、彼は帰って来た。
「何だい」
「何だいじゃない。ここから登るんだ」
「こんな所から登るのか。少し妙だぜ。こんな丸木橋《まるきばし》を渡るのは妙だぜ」
「君見たようにむやみに歩行《ある》いていると若狭《わかさ》の国へ出てしまうよ」
「若狭へ出ても構わんが、いったい君は地理を心得ているのか」
「今大原女に聴《き》いて見た。この橋を渡って、あの細い道を向《むこう》へ一里上がると出るそうだ」
「出るとはどこへ出るのだい」
「叡山《えいざん》の上へさ」
「叡山の上のどこへ出るだろう」
「そりゃ知らない。登って見なければ分らないさ」
「ハハハハ君のような計画好きでもそこまでは聞かなかったと見えるね。千慮の一失か。それじゃ、仰《おお》せに従って渡るとするかな。君いよいよ登りだぜ。どうだ、歩行《ある》けるか」
「歩行けないたって、仕方がない」
「なるほど哲学者だけあらあ。それで、もう少し判然すると一人前《いちにんまえ》だがな」
「何でも好いから、先へ行くが好い」
「あとから尾
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