《つ》いて来るかい」
「いいから行くが好い」
「尾いて来る気なら行くさ」
 渓川《たにがわ》に危うく渡せる一本橋を前後して横切った二人の影は、草山の草繁き中を、辛《かろ》うじて一縷《いちる》の細き力に頂《いただ》きへ抜ける小径《こみち》のなかに隠れた。草は固《もと》より去年の霜《しも》を持ち越したまま立枯《たちがれ》の姿であるが、薄く溶けた雲を透《とお》して真上から射し込む日影に蒸《む》し返されて、両頬《りょうきょう》のほてるばかりに暖かい。
「おい、君、甲野《こうの》さん」と振り返る。甲野さんは細い山道に適当した細い体躯《からだ》を真直《まっすぐ》に立てたまま、下を向いて
「うん」と答えた。
「そろそろ降参しかけたな。弱い男だ。あの下を見たまえ」と例の桜の杖を左から右へかけて一振りに振り廻す。
 振り廻した杖の先の尽くる、遥《はる》か向うには、白銀《しろかね》の一筋に眼を射る高野川を閃《ひら》めかして、左右は燃え崩《くず》るるまでに濃く咲いた菜の花をべっとりと擦《なす》り着けた背景には薄紫《うすむらさき》の遠山《えんざん》を縹緲《ひょうびょう》のあなたに描《えが》き出してある。
「なるほど好い景色《けしき》だ」と甲野さんは例の長身を捩《ね》じ向けて、際《きわ》どく六十度の勾配《こうばい》に擦り落ちもせず立ち留っている。
「いつの間《ま》に、こんなに高く登ったんだろう。早いものだな」と宗近《むねちか》君が云う。宗近君は四角な男の名である。
「知らぬ間に堕落したり、知らぬ間に悟ったりするのと同じようなものだろう」
「昼が夜になったり、春が夏になったり、若いものが年寄りになったり、するのと同じ事かな。それなら、おれも疾《と》くに心得ている」
「ハハハハそれで君は幾歳《いくつ》だったかな」
「おれの幾歳より、君は幾歳だ」
「僕は分かってるさ」
「僕だって分かってるさ」
「ハハハハやっぱり隠す了見《りょうけん》だと見える」
「隠すものか、ちゃんと分ってるよ」
「だから、幾歳なんだよ」
「君から先へ云え」と宗近君はなかなか動じない。
「僕は二十七さ」と甲野君は雑作《ぞうさ》もなく言って退《の》ける。
「そうか、それじゃ、僕も二十八だ」
「だいぶ年を取ったものだね」
「冗談《じょうだん》を言うな。たった一つしか違わんじゃないか」
「だから御互にさ。御互に年を取ったと云うんだ」

前へ 次へ
全244ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング