嚀《ていねい》な命令を下した。
男は無言のまま再び膝《ひざ》を崩《くず》す。御互に春の日は永い。
「近頃は女ばかりで淋《さむ》しくっていけません」
「甲野君はいつ頃《ごろ》御帰りですか」
「いつ頃帰りますか、ちっとも分りません」
「御音信《おたより》が有りますか」
「いいえ」
「時候が好いから京都は面白いでしょう」
「あなたもいっしょに御出《おいで》になればよかったのに」
「私《わたし》は……」と小野さんは後を暈《ぼ》かしてしまう。
「なぜ行らっしゃらなかったの」
「別に訳はないんです」
「だって、古い御馴染《おなじみ》じゃありませんか」
「え?」
小野さんは、煙草の灰を畳の上に無遠慮に落す。「え?」と云う時、不要意に手が動いたのである。
「京都には長い事、いらしったんじゃありませんか」
「それで御馴染なんですか」
「ええ」
「あんまり古い馴染だから、もう行く気にならんのです」
「随分不人情ね」
「なに、そんな事はないです」と小野さんは比較的|真面目《まじめ》になって、埃及煙草《エジプトたばこ》を肺の中まで吸い込んだ。
「藤尾、藤尾」と向うの座敷で呼ぶ声がする。
「御母《おっか》さんでしょう」と小野さんが聞く。
「ええ」
「私《わたし》はもう帰ります」
「なぜです」
「でも何か御用が御在《おあ》りになるんでしょう」
「あったって構わないじゃありませんか。先生じゃありませんか。先生が教えに来ているんだから、誰が帰ったって構わないじゃありませんか」
「しかしあんまり教えないんだから」
「教わっていますとも、これだけ教わっていればたくさんですわ」
「そうでしょうか」
「クレオパトラや、何かたくさん教わってるじゃありませんか」
「クレオパトラぐらいで好ければ、いくらでもあります」
「藤尾、藤尾」と御母さんはしきりに呼ぶ。
「失礼ですがちょっと御免蒙《ごめんこうむ》ります。――なにまだ伺いたい事があるから待っていて下さい」
藤尾は立った。男は六畳の座敷に取り残される。平床《ひらどこ》に据えた古薩摩《こさつま》の香炉《こうろ》に、いつ焼《た》き残したる煙の迹《あと》か、こぼれた灰の、灰のままに崩《くず》れもせず、藤尾の部屋は昨日《きのう》も今日も静かである。敷き棄てた八反《はったん》の座布団《ざぶとん》に、主《ぬし》を待つ間《ま》の温気《ぬくもり》は、軽く払う春風に、ひっ
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