だ至らざるものである。最上の戦には一語をも交うる事を許さぬ。拈華《ねんげ》の一拶《いっさつ》は、ここを去る八千里ならざるも、ついに不言にしてまた不語である。ただ躊躇《ちゅうちょ》する事|刹那《せつな》なるに、虚をうつ悪魔は、思うつぼに迷《まよい》と書き、惑《まどい》と書き、失われたる人の子、と書いて、すわと云う間《ま》に引き上げる。下界万丈《げかいばんじょう》の鬼火《おにび》に、腥《なまぐ》さき青燐《せいりん》を筆の穂に吹いて、会釈《えしゃく》もなく描《えが》き出《いだ》せる文字は、白髪《しらが》をたわし[#「たわし」に傍点]にして洗っても容易《たやす》くは消えぬ。笑ったが最後、男はこの笑を引き戻す訳《わけ》には行くまい。
「小野《おの》さん」と女が呼びかけた。
「え?」とすぐ応じた男は、崩《くず》れた口元を立て直す暇《いとま》もない。唇に笑《えみ》を帯びたのは、半ば無意識にあらわれたる、心の波を、手持無沙汰《てもちぶさた》に草書に崩《くず》したまでであって、崩したものの尽きんとする間際《まぎわ》に、崩すべき第二の波の来ぬのを煩《わずら》っていた折であるから、渡りに船の「え?」は心安く咽喉《のど》を滑《すべ》り出たのである。女は固《もと》より曲者《くせもの》である。「え?」と云わせたまま、しばらくは何にも云わぬ。
「何ですか」と男は二の句を継《つ》いだ。継がねばせっかくの呼吸が合わぬ。呼吸が合わねば不安である。相手を眼中に置くものは、王侯といえども常にこの感を起す。いわんや今、紫の女のほかに、何ものも映《うつ》らぬ男の眼には、二の句は固《もと》より愚かである。
女はまだ何《なん》にも言わぬ。床《とこ》に懸《か》けた容斎《ようさい》の、小松に交《まじ》る稚子髷《ちごまげ》の、太刀持《たちもち》こそ、昔《むか》しから長閑《のどか》である。狩衣《かりぎぬ》に、鹿毛《かげ》なる駒《こま》の主人《あるじ》は、事なきに慣《な》れし殿上人《てんじょうびと》の常か、動く景色《けしき》も見えぬ。ただ男だけは気が気でない。一の矢はあだに落ちた、二の矢のあたった所は判然せぬ。これが外《そ》れれば、また継がねばならぬ。男は気息《いき》を凝《こ》らして女の顔を見詰めている。肉の足らぬ細面《ほそおもて》に予期の情《じょう》を漲《みなぎ》らして、重きに過ぐる唇の、奇《き》か偶《ぐう》かを疑がい
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