つつも、手答《てごたえ》のあれかしと念ずる様子である。
「まだ、そこにいらしったんですか」と女は落ちついた調子で云う。これは意外な手答である。天に向って彎《ひ》ける弓の、危うくも吾《わ》が頭の上に、瓢箪羽《ひょうたんば》を舞い戻したようなものである。男の我を忘れて、相手を見守るに引き反《か》えて、女は始めより、わが前に坐《す》われる人の存在を、膝《ひざ》に開《ひら》ける一冊のうちに見失っていたと見える。その癖、女はこの書物を、箔《はく》美しと見つけた時、今|携《たずさ》えたる男の手から※[#「てへん+宛」、第3水準1−84−80]《も》ぎ取るようにして、読み始めたのである。
 男は「ええ」と申したぎりであった。
「この女は羅馬《ロウマ》へ行くつもりなんでしょうか」
 女は腑《ふ》に落ちぬ不快の面持《おももち》で男の顔を見た。小野さんは「クレオパトラ」の行為に対して責任を持たねばならぬ。
「行きはしませんよ。行きはしませんよ」
と縁もない女王を弁護したような事を云う。
「行かないの? 私だって行かないわ」と女はようやく納得《なっとく》する。小野さんは暗い隧道《トンネル》を辛《かろ》うじて抜け出した。
「沙翁《シェクスピヤ》の書いたものを見るとその女の性格が非常によく現われていますよ」
 小野さんは隧道を出るや否や、すぐ自転車に乗って馳《か》け出そうとする。魚は淵《ふち》に躍《おど》る、鳶《とび》は空に舞う。小野さんは詩の郷《くに》に住む人である。
 稜錐塔《ピラミッド》の空を燬《や》く所、獅身女《スフィンクス》の砂を抱く所、長河《ちょうが》の鰐魚《がくぎょ》を蔵する所、二千年の昔|妖姫《ようき》クレオパトラの安図尼《アントニイ》と相擁して、駝鳥《だちょう》の※[#「翌の立に代えて妾」、第4水準2−84−92]※[#「たけかんむり/捷のつくり」、第4水準2−83−53]《しょうしょう》に軽く玉肌《ぎょっき》を払える所、は好画題であるまた好詩料である。小野さんの本領である。
「沙翁の描《か》いたクレオパトラを見ると一種妙な心持ちになります」
「どんな心持ちに?」
「古い穴の中へ引き込まれて、出る事が出来なくなって、ぼんやりしているうちに、紫色《むらさきいろ》のクレオパトラが眼の前に鮮《あざ》やかに映って来ます。剥《は》げかかった錦絵《にしきえ》のなかから、たった一人がぱっ
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