今さら愚癡《ぐち》をこぼしたって仕方がないとは思いますが、なまじい自分の腹を痛めた子でないだけに、世間へ対しても心配になりまして……」
「ごもっともで」と宗近老人は真面目《まじめ》に答えたが、ついでに灰吹《はいふき》をぽんと敲《たた》いて、銀の延打《のべうち》の煙管《きせる》を畳の上にころりと落す。雁首《がんくび》から、余る煙が流れて出る。
「どうです、京都から帰ってから少しは好いようじゃありませんか」
「御蔭様で……」
「せんだって家《うち》へ見えた時などは皆《みんな》と馬鹿話をして、だいぶ愉快そうでしたが」
「へええ」これは仔細《しさい》らしく感心する。「まことに困り切ります」これは困り切ったように長々と引き延ばして云う。
「そりゃ、どうも」
「彼人《あれ》の病気では、今までどのくらい心配したか分りません」
「いっそ結婚でもさせたら気が変って好いかも知れませんよ」
謎《なぞ》の女は自分の思う事を他《ひと》に云わせる。手を下《くだ》しては落度になる。向うで滑《すべ》って転ぶのをおとなしく待っている。ただ滑るような泥海《ぬかるみ》を知らぬ間《ま》に用意するばかりである。
「その結婚の事を朝暮《あけくれ》申すのでございますが――どう在《あ》っても、うんと云って承知してくれません。私も御覧の通り取る年でございますし、それに甲野もあんな風に突然外国で亡《な》くなりますような仕儀で、まことに心配でなりませんから、どうか一日《いちじつ》も早く彼人のために身の落つきをつけてやりたいと思いまして……本当に、今まで嫁の事を持ち出した事は何度だか分りません。が持ち出すたんびに頭から撥《は》ねつけられるのみで……」
「実はこの間見えた時も、ちょっとその話をしたんですがね。君がいつまでも強情を張ると心配するのは阿母《おっかさん》だけで、可愛想だから、今のうちに早く身を堅めて安心させたら善かろうってね」
「御親切にどうもありがとう存じます」
「いえ、心配は御互で、こっちもちょうどどうかしなければならないのを二人|背負《しょ》い込んでるものだから、アハハハハどうも何ですね。何歳《いくつ》になっても心配は絶えませんね」
「此方《こちら》様などは結構でいらっしゃいますが、私は――もし彼人がいつまでも病気だ病気だと申して嫁を貰ってくれませんうちに、もしもの事があったら、草葉の陰で配偶《つれあい》
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